三
ヒロを幼稚園へ送り届け、その足で仕事へ向かった。電車が地下に潜り、自分の姿がドアガラスに浮かび上がる。はっきり言って、ひどすぎる。眉毛が薄く消えかかってるのもアレだが、右側に固まって跳ねている寝癖は耐えられない。
これというのも、ヒロの弁当のせいだった。幼稚園には弁当が必要だということを、私はすっかり忘れていた。結局、朝から近所のコンビニに走り、三八〇円のコンビニ弁当をヒロの弁当箱に詰め替え、「愛がこもってへんなぁ」と愚痴るヒロに、「明日、もう一回チャンスを下さい」と謝ると、「あしたは土曜日やから、弁当はいらん日やねん。……百合ちゃん、あのな。もうちょっと、考えてから喋りぃや」と諭された。本当に一体、誰がこんな言葉をヒロに使っているのかと思う。
[「葬送」5]の続きを読む
スポンサーサイト
- 2007/03/03(土) 14:39:28|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|
夜九時を過ぎても、ヒロは自分にあてがわれた寝室と、私の部屋を行ったり来たりしていた。
見かねた父が、ヒロに向かって、「おじいちゃんと一緒に寝よか」と言ったが、「煙草のにおいするから、嫌や」と、見事に振られていた。母なら、上手く寝かしつけられただろうが、「今晩、会のお講があるから」と言って、夕方に帰ってしまっていた。
今まで、ヒロがこの家に泊まる時は、必ず千紗子がいた。一人での外泊は、これが最初なのかもしれない。不安なんだろう。そう気づいたものの、どうして良いか分からず、私は落ち着きのないヒロを、見て見ぬふりをしていた。
パジャマ姿のヒロは、パソコンでメールを打つ私を横からじっと眺めた後、本棚からイラスト資料用の動物図鑑を抜き、いきなり音読しはじめた。
[「葬送」4]の続きを読むテーマ:長編自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2007/01/28(日) 16:50:15|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|
重い疲労を腕に感じて居間に入ると、即座に、「線香臭い!」と声が飛んできた。
限界まで膨らみきった腹部を突き出すようにして、妹の千紗子がソファに寝ころんでいる。何度見ても、妊婦の姿は見慣れない。何というか、壊れやすい宇宙人のように思えて、妙にどぎまぎしてしまう。
カーペットの上には、中身をぶちまけたスポーツバッグが転がっている。入院に持っていくのだろう。見ると、タオルやファッション雑誌に紛れて、紋のついたお守りや数珠、『日々のおつとめ』と銘打たれた分厚い冊子も散らばっている。間違いなく、母の仕業だ。千紗子のことを思って持ってきたんだろうが、どうも母はいつも、あと一歩の思いやりが足りない。自分が「良い」と思っていることは、全世界の誰にとっても良いものだと信じて疑わないフシがある。
コートを脱ぎ、換気扇を回す。セーターの袖に鼻をつけて嗅いでみると、確かに、抹香の匂いが付いているような気がした。
千紗子の前にあるテレビは、古いサスペンスドラマの再放送を映している。派手はスーツを着た眉毛の太い女優が、岸壁で刑事役に追いつめられているところだ。画面いっぱいに、バブリーな昭和の匂いが充満している。
[「葬送」3]の続きを読むテーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2006/10/03(火) 00:09:12|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|
二
「駅を下りたらすぐ分かる」と妹が言ったとおり、「ホシノ幼稚園」は駅の改札からでも見えた。
パステルカラーで彩られた門の周りはすでに閑散としており、お迎えのママさん達もいない。光る物を感じて上を見ると、門の上に、一目で新品と分かる監視カメラと赤色回転灯が備え付けられてあった。その硬質な赤い色に、意味もなく鼓動が早まる。
防犯機器に目を奪われていると、後ろから、「すいません」と声がかかった。思わず、ビクリと肩が震えた。挙動不審な動作で振り返ると、クリーム色のエプロンを着けた若い女性が、私の反応に驚いたらしく、笑顔を硬直させている。たぶんこの幼稚園の先生だろう。
「あの……お迎えの保護者の方、ですよね?」
「あっ、は、はい。ええと、ヒロ、江藤宏貴は……たしか、さくら組だったと思うんですけど……」
情けない声が出た。たぶん、顔はもっと情けないと思う。
「あぁ、ヒロ君ですね」女性はニッコリ笑い、少し首を傾けた。にこやかだが、目は笑っていない。「恐れ入りますが、どういったご関係でしょうか?」
免許証を見せても、名字が違うので意味がない。どうやって身分を証明しようかと思った時、幼稚園の奥から小さな影が跳ねるように走ってきた。通園カバンの影も、がっしゃがっしゃと一緒に踊っている。
「百合ちゃーん!」
子供の甲高い叫びが、脳に直接突き刺さった。ヒロ、と呼ぼうとしたが、きつく光る瞳に気圧される。
「ボクな、だいぶん待ったんやけど! 帰んのん、最後から三番目やで!」
タータンチェック柄の制服を着た甥が、腕を組んでこちらを見上げた。
[「葬送」2]の続きを読むテーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2006/09/15(金) 13:20:10|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|
一
葬儀斎場は劇場だ。
主役は喪主、脇役に親族、観客は会葬者達。そして、役者が安心して舞台に立ち、観客を感動させるには、数多くの裏方が必要だ。全員で力を合わせて、厳粛で感動的な「お別れ」を作り出す。
大阪S市の葬儀会館。この巨大な複合施設には、三つの葬儀斎場が入っている。ここでは元旦を除いて、ほぼ毎日、葬式という名の「公演」が行われている。
私のような葬儀アシスタントは、さしずめ、観客誘導の係員か、役者の付き人といったところかもしれない。
『……では、今一度、合掌をお願いします』
マイクを通して、葬儀会社の社員の声が響く。霊柩車の周りを取り囲んだ何十人もの会葬者が、一斉に手を合わせて頭を下げる。
私は制服のポケットから白い塊を取り出した。
これは、書道用の半紙で幾重にも包んだ、故人の茶碗だ。迷わず成仏してもらうために、茶碗を割る。「帰ってきても、もうあなたの御飯はないんですよ」という意味があるそうだ。家族にそう突き放される方が成仏できないんじゃないかと思うが、そういうしきたりらしい。
[「葬送」1]の続きを読むテーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2006/09/14(木) 20:54:24|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|