重い疲労を腕に感じて居間に入ると、即座に、「線香臭い!」と声が飛んできた。
限界まで膨らみきった腹部を突き出すようにして、妹の千紗子がソファに寝ころんでいる。何度見ても、妊婦の姿は見慣れない。何というか、壊れやすい宇宙人のように思えて、妙にどぎまぎしてしまう。
カーペットの上には、中身をぶちまけたスポーツバッグが転がっている。入院に持っていくのだろう。見ると、タオルやファッション雑誌に紛れて、紋のついたお守りや数珠、『日々のおつとめ』と銘打たれた分厚い冊子も散らばっている。間違いなく、母の仕業だ。千紗子のことを思って持ってきたんだろうが、どうも母はいつも、あと一歩の思いやりが足りない。自分が「良い」と思っていることは、全世界の誰にとっても良いものだと信じて疑わないフシがある。
コートを脱ぎ、換気扇を回す。セーターの袖に鼻をつけて嗅いでみると、確かに、抹香の匂いが付いているような気がした。
千紗子の前にあるテレビは、古いサスペンスドラマの再放送を映している。派手はスーツを着た眉毛の太い女優が、岸壁で刑事役に追いつめられているところだ。画面いっぱいに、バブリーな昭和の匂いが充満している。
千紗子は手を額に乗せたまま、ぼんやり天井を見つめている。
「気分悪いん?」テレビの音量を下げ、動かない千紗子に訊くと、
「良いはずないわよ!」
と、元気よく返ってきた。千紗子は半身を起こすと、燃えるような目でこちらを睨む。
「なんで、お母さんが来てるんよ」
「私は言うてへんよ」
「じゃあ、お父さん?」
「たぶん、カンちゃうかなぁ」
「はぁ? 何よ、それ。さいあく」
千紗子はそのまま黙り、毛先だけ茶色い三つ編みを、ふて腐れた表情で弄っている。
最後の「さいあく」は、「最悪」じゃなかったので、あらかた怒りは収まっているのだろう。
「まあ、お母さんも、千紗子の心配をして来たんやろうし。……娘が出産するのに、心配しない母親はいないって」
これ以上絡まれたくないので、話を打ち切ろうとして言ったセリフは、我ながら昼ドラに負けない陳腐さだった。言葉の恥ずかしさに落ち着かず、「たぶんね」と、小声で付け足す。
「出産する娘を、怒らすことしかでけへんのに?」千紗子はそう言い、口の端を吊り上げる。しかしすぐに、「あーもう、あー、もう!」と、一人で喚き出した。
「……どうしたんよ」
「なんか、もう、アホらしくなってきたわ」弄っていた三つ編みを後ろに跳ね除けると、千紗子は急に笑顔を向けてきた。「……あっ、ヒロのお迎えありがとうね、お姉ちゃん」
「はあ」変化に付いていけず、気の抜けた声が出た。
「すぐ、この子を出して帰ってくるから、ヒロのこと、お願いね」
千紗子は、ボールのような腹部をマタニティウェアの上から撫でた。その横顔を見て、妊娠前と比べてだいぶ肉が付いたなぁ、と思う。顎が二重になっているし、指もあんなに丸くなかった。確か、ヒロを身籠もった時は、もうちょっと細かった。年々、四角くなる母のように、千紗子も貫禄のある体つきに変わっていくのだろうか。
洗面台で手を洗いながら、鏡を見た。顎を反らすと、骨っぽい首すじに青い血管が浮いた。
私だけは、いつまでたっても固い身体をしている。二十五歳を越えたあたりから、太股や下腹部にやたらと脂肪がつくようになってきたが、やっぱり身体全体には、丸みというものが無い、と思う。
ヒロが幼稚園で私のことを「お母さんの妹」と言ったのを思い出し、薄暗い感情が、水面に落ちた墨滴のように広がっていく。浸食を食い止めるため、わざと大きめの声を出した。
「そーいや、旦那は、いつ迎えに来るの?」
手を拭いて振り返ると、千紗子がつまらなさそうにテレビのチャンネルを変えている。
「もうすぐかな。車で私を病院まで送って、そっから、また会社に戻るんやって」
千紗子の旦那は、中堅広告代理店の営業マンだ。義姉の私に気を遣ってか、極たまに、イラストの仕事を回してくれることがある。
千紗子の旦那は、年がら年中、陽に焼けた肌をしている。体育会系というやつだ。依頼を受けて制作したイラストを渡すと、大仰に手を合わせ、「ありがとうございますっ! 本当に助かりましたっ。いやぁ、お義姉さんしか頼める人がいなくて」と、毎度繰り返す。
大きな声でそう言われるたび、私は、なぜか叱られているような気分になってしまう。たぶん、根本的に苦手なのだろう。
「旦那、仕事が忙しそうなん?」
「なんか、大手のご新規さんの担当になったみたい。もう、毎日バタバタしてるわ」リモコンを持ったまま、千紗子が大きく体を伸ばした。「……なんか、近くにいる人がせわしなくしてると、そのバタバタが、自分にも伝染してくるみたいで、嫌やわ」
「へえ」
「バタバタしてる中で、子供は産みたくないんやけどねえ。特に、今度、女の子だし」
そういうもんなのか。と思っていると、表に車の停まる音がした。重い振動。千紗子の旦那の4WDだ。
「あの人が、来たみたいやわ」
そう言い、千紗子は、テレビのリモコンをソファに投げて立ち上がった。
テレビは消費者金融のCMを映している。「ご利用は計画的に」と、最近よく見かけるアイドルが、きれいな歯を見せて笑った。
今日の葬式が過ぎった。棺桶の蓋を開けられない死に方。首吊りだろうか? 飛び込みだろうか? どちらにしろ、珍しいことではない。
廊下から、ドタドタと賑やかな足音と、人の声がいくつも聞こえてきた。千紗子の旦那が来たので、父や母、ヒロも家の中に入ってきたのだろう。
テレビを見ると、既に育毛剤のCMに変わっている。毛根の断面図に、脂が詰まっている図がアップで映る。
私の毛穴という毛穴には、線香の匂いが染み渡っているな、とボンヤリ思った。生気溢れる空間に、自分の毛穴から噴出する抹香の匂いが流れていく様が浮かんだ。
<続>
スポンサーサイト
テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2006/10/03(火) 00:09:12|
- 長編「葬送」
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
-
|