夜九時を過ぎても、ヒロは自分にあてがわれた寝室と、私の部屋を行ったり来たりしていた。
見かねた父が、ヒロに向かって、「おじいちゃんと一緒に寝よか」と言ったが、「煙草のにおいするから、嫌や」と、見事に振られていた。母なら、上手く寝かしつけられただろうが、「今晩、会のお講があるから」と言って、夕方に帰ってしまっていた。
今まで、ヒロがこの家に泊まる時は、必ず千紗子がいた。一人での外泊は、これが最初なのかもしれない。不安なんだろう。そう気づいたものの、どうして良いか分からず、私は落ち着きのないヒロを、見て見ぬふりをしていた。
パジャマ姿のヒロは、パソコンでメールを打つ私を横からじっと眺めた後、本棚からイラスト資料用の動物図鑑を抜き、いきなり音読しはじめた。
「フタコブラクダは、いっしゅうかん、なにものまずに、いきてゆくことができます」
「……ラクダ好きなん?」
もっと他に言うことあるだろうと、心の中で自分に突っ込む。「一緒に寝ようか」と言えば済むことだった。たぶん、ヒロは、私の言葉を待っている。
「僕なぁ、ペンギン、好きやねん」
「ペンギンなぁ……」
沈黙が落ちた。またパソコンに向かおうとすると、そうはさせるか、という気配が伝わってきた。
「ほんなら……ほんなら、ペンギンは僕のんな。百合ちゃんは何がほしい?」
五歳の子供の方が、はるかに私よりもコミュニケーション能力を備えているようだ。
「なんでもエエよ」
「なんでもじゃ、あかんねん。僕が、百合ちゃんに動物探したるから」
ヒロは、やたらと大げさに図鑑のページをめくる。時計を見ると、もう十時近い。
「ヒロ、もう寝なアカンて。明日、幼稚園やろ。起きられへんようなるで……」
「百合ちゃんは、これや!」ヒロは全身で、私の言葉を拒絶していた。「これ、そっくりやで」
ヒロが指さす先を見ると、『馬のなかま』と書かれた地味ページの中でも、最も地味なロバがいた。ウサギのような長い耳をしたロバが、ぼんやりと草を食べている写真だ。
「……なんでロバなん?」
「眠たそうやから」
「眠そうですか」思わず敬語になる。
「そんで、僕な、寝る時な、毎日、お母さんにお話読んでもらってるねん」
文脈が繋がっていないよ。と、言いかけてやめる。ヒロの顔から、笑顔が消えた。勝負の気配が、伝わってきた。
「へえ、いいねえ」
相槌を打ちながら、パソコンのキーボードを叩く。画面には「sいうふぁねk」と、意味のない文字列が並んだ。
「だから、寝る時、お話読んでもらわんと、眠くならへんねん」
大きな目が、こちらの反応を伺っている。
「へーえ」
この期に及んでも、私はまだ逃げようとしていた。自分でも、どうしてこんなに逃げているのか分からない。
高校時代、仲の良い友人だと思っていた下級生が、自分に恋愛感情を持っていると他人経由で聞かされ、彼と二人きりになるのを避けまくっていたことがある。嫌いだったわけじゃない。ただ、誰かと接近することが面倒臭く、それ以上に怖かった。今も同じだ。
「百合ちゃん、お話してぇや、なぁ」
逃げ場が無くなった。
やっかいだな、と思った。ヒロは、あの奥手な下級生じゃない。周りにいる大人から無条件で愛されると信じているし、大人の追いつめ方も知っている。
「なんでもエエねん。なぁ、なぁ」ヒロが私の袖を引っ張る。
そう言えば、私はヒロに懐かれて、何か困ることがあるんだろうか? 改めて考えると、よく分からなかった。考えれば考えるほど、自分の怯えの出所が分からない。
「じゃあ、ヒロの部屋行こか」
観念して椅子を立つ。このままだと、本当に、日付を越えても寝そうにない。
「ここで」ヒロが私を見上げた。
「ここ?」
「布団持ってくるから、ここで寝てエエ? おねしょせえへんから」
部屋を見渡す。八畳間の部屋は、まるで賽の河原だ。本や雑誌の束、画材道具なんかが、水子が積んだ石のように畳の上に点在している。布団を敷く余裕など全く無い。
「はい、決まりー」
ヒロは嬉しそうに言うと、床に積んである本や物を一緒くたにして、部屋の隅に押し除け始めた。積み上げた紙の束が崩れ、撒き散らかされる。一瞬あっけに取られたが、ばらまかれた紙の中に「確定申告書」という文字を見つけ、慌てて止めた。
「……ヒロ、私のベッドで寝て。布団敷くのは無理やわ」
「え、ほんま? やったあ」一声上げると、ヒロはすぐさま私のベッドに上がって飛び跳ねる。「僕んち布団やから、ベッドで寝るん初めてや!」ごろごろ寝返りを打った後、ベッドの端っこに寄り、「ここ、百合ちゃんの分やで」と隣の空間を手でバンバン叩く。
「それは……どうも」
「僕、運転手やるから。百合ちゃんは助手席な。はやくシートベルトしめて下さいー」
「はあ」
ベッドを、乗り物に見立てているらしかった。ヒロはうつ伏せになって、ハンドルを握る真似をする。足をバタつかせ、右へ左へ身体を傾ける。
「早よう乗って! 発車するでえ」
仕方ないので、とりあえずヒロの横に潜り込む。そう言えば、相手は五歳と言え、男と同衾するなんて何年ぶりだろうと考えかけ……自分が惨めになってきたので、途中でやめた。
ハシャギまくるヒロのこめかみには、うっすら汗が浮かんでいる。
無理にでも部屋を片づけて、布団を敷いた方が良かったのかもしれない。と、今更ながら後悔する。
「お客さん、どこまで行きますか?」
「じゃあ……マリ共和国の、ドゴン族の集落まで」適当に答えた。
「お客さん、ツウやねえ」
「分かってへんやろ」
ツッコミを入れたが、ヒロは聞いていない。
「ほんなら行きますよー。揺れるから、ちゃんとシートベルトしてくださいねえ」
どうやらベッドは、アフリカ大陸に向かって発車したらしい。微塵も寝る気は無いようだ。
「ヒロ、お話はもうエエの?」
五歳児が普通、何時に寝るのか知らないが、どう考えても十時は遅い。
「僕、運転してるから、百合ちゃん、お話しといて」
「……」
さっきまで「お話してぇ」と、しおらしく頼んでいたくせに、勝手に話をしておけとは、無茶苦茶だ。
昼間に会った幼稚園の先生を思い出し、毎日、こんな子供を何人も相手に仕事をしていて、よくストレスで体を壊さないなと感心する。慣れなのだろうか?
今はとりあえず、ヒロの興奮状態を何とかしなければならない。
「ヒロ。運転はやめて、大人しく上向いて寝なさい!」
ヒロが急カーブを曲がる真似をするたび、熱の塊のような子供の体が、私の脇腹にぶつかる。
「せやけど、運転せえへんかったら、車、止まってまうねん!」身体を傾けながら、ヒロが叫んだ。
「えーとね。このベッドには、なんと、最新型の、自動操縦機能が付いてるんです!」
「あ、そうかぁ。忘れとったわー」
ヒロは枕の真ん中を指で押し、口で「ポチッ」と効果音をつける。どうやら、ベッドは無事に自動操縦へと切り替わったらしい。
「もう、寝えや。……ヒロのお母さんが退院したら、怒られるで」
ヒロは上を向き、しばらく動きを止めた。
「百合ちゃん、お母さん、いつ帰ってくるん?」
「たぶん……一週間くらいちゃうかなあ」
本当は、よく知らなかった。ヒロが産まれた時のことを考えると、出産だけならあと数日だろうが、子供を産んでから何日くらい入院しているのかが分からない。
ヒロを見ると、天井を見つめたままじっとしている。昼間、千紗子がソファに寝転がって、ぼんやり天井を見ていたのとは違い、瞬きもせず、天井の一点を見据えている。
「あれやねえ……千紗子帰ってきたら、ヒロはお兄ちゃんやな」
たぶん、この場面では、こういうセリフが正解だと思う。
「僕、べつに、妹いらん」ごろんと、ヒロは、壁の方を向いて丸くなる。
パジャマを通して、小さな背骨の形が浮き上がって見えた。子供のくせに、背中の表情だけは一人前だ。
「お母さん、前は、『ヒロだけで、手ぇいっぱいやわ』って言うてたのに」
さっきより粘度の高い声だ。子供は、どこでこんな甘え方を体得するのだろうか。
「あ、そうや! ヒロ」わざとらしく手を打った。「お話の代わりに、絵ぇ描いたろか?」
本当は、もっと別の言葉をかけるべきなんだろう。分かっているのに言わないのは、私のずるい逃げだ。子供のなかみは熱すぎて、私には触れるだけの余裕がない。
「描いてぇ!」
ヒロが目を輝かせ、ぱっと身を起こした。「百合ちゃん、絵ぇ描くのうまいからなぁ」大きな瞳の中心には、小さな私が膨らんで映っている。
私は机の上に手を伸ばし、近所の百円均一で購入したA3サイズの『お絵かき帳』と、埃をかぶっている十二色入りの水性マーカー、それに黒の油性ペンを取った。
新しいページを開けた『お絵かき帳』を枕の上に置き、肘をついて俯せになる。ヒロも私を真似てベッドに寝ころんだ。
「なに描こう?」
「マジレンジャー!」ヒロが、腕を突き出して言った。
「……ごめん。それ、分からへんわ」
「『マージ・マジ・マジーロ』って言うねんで。知らへんの?」
「ゴレンジャーとかの仲間だろうな、ってことくらいは、分かるけど」
恐らく、レッドとかピンクとかイエローとかがいて、幼稚園バスを襲う怪獣と戦うのだろう。
「あかんなぁ、ジョーシキやで」
と、心底呆れかえった顔をされた。
確か、特撮ヒーロー番組は、日曜日の朝早くにやっていたはずだ。用も無いのに、あんな時間に起きているわけない。
「あ、そうや。アンパンマンなら描けるわ」
午後から放送される『アンパンマン』は、葬儀屋でアルバイトを始める前、起きてテレビをつけるとやっていた。
ヒロの濃い眉毛が、真ん中に寄った。不満らしい。
「アンパンマンなぁ、……若いときは見てたけどなぁ」
五歳児の「若いとき」って、一体いつなんだろうかと思いながら、黒ペンと赤マーカーで、空飛ぶアンパンマンを描いていく。甘いマーカーの匂いが昇ってきた。
「あっ、アンパンマン、指無いで。グーやで」
横から、ヒロが逐一、「そこ、色違うで」とか、「鼻の光ってるところは、四角いで」などアドバイスを入れてくる。それに応えながら、ジャムおじさん、バタコさん、食パンマン、それにパン工場を加えていく。
そう言えば、パンにはイースト菌が使われている。バイキンマンが、アンパンマンを敵視するのは、同族嫌悪も含まれているのかもしれないなと思い、絵の中に、バイキンマンを追加した。黒のペンで輪郭を描き、水性マーカーで色を塗っていく。
記憶を頼りに描いているので、だいぶ適当な部分はあるが、それでも、地面を描き、空を描き、木々や花を描くと、世界が出来上がってきた。白い平面が、熱を発し出す。
「すっごいなぁ」ヒロが、甲高い声を上げる。
そう言えば、絵を描くのは久しぶりだった。自分の手から溢れる色彩が心地良い。葬儀場には黒、白、黄色しかない。
パン工場の近くに、バンザイしている人間の男の子を描く。短い髪、黒々とした眉の下に、大きな目と長い睫毛を描く。
「これ、誰やと思う?」男の子の洋服にタータンチェック柄を描き込みながら、ヒロを見た。
「僕やぁ」恥ずかしそうに笑うと、ヒロは枕に顔を埋めた。しかしすぐ顔を上げ、乗り出すようにして、自分の絵の隣を指さして言った。
「な、な。ここに、マロさん描ける?」
「ちょっと待ちや」
ヒロの隣に、後ろ足で立ち上がる犬を描く。丸い眉を付けると、すぐマロさんになった。その横に、マロさんの鎖を持っている細長い父を描く。「おじいちゃんや!」ヒロが小さく叫んだ。
ペンで輪郭を取り始めると、まだ顔も描いていないのに、隣から「あ、次、おばあちゃんやろ?」「これ、絶対、お母さんやで。な、そやろ? やっぱりそうや!」と、興奮気味の声が飛んできた。
ヒロの横に、丸々と太った母、お腹の大きい千紗子、それに、茶色く日焼けした千紗子の旦那が並んだ。
嬉しそうに『お絵かき帳』を眺めていたヒロが、あれ? という風にこちらを見上げる。
「百合ちゃんは?」
「私はエエねん」
「なんで」
「めんどくさいし」あまり自分の姿は描きたくなかった。
「ほんなら、僕が、描いたるわ」
止める間も無く、ヒロはベッドに転がったペンを拾い、勝手にガシガシ描き始めた。最初に描いていたアンパンマンキャラが、上から新しい線に塗りつぶされていく。私の視線を気にしたのか、ヒロは紙を抱え上げ、「見たらアカン」と後ろを向いてしまう。
はっと思い出し、時計を見ると、針は十一時近くを指している。こんな時間から絵を描き始めたのが、そもそも間違いだった。
「ヒロ、ほんま寝なアカンわ……」
「できた!」画用紙を突き出された。「百合ちゃんや」
何重にもぶれた線で顔の輪郭が取られ、中にある目は黒丸、鼻は三角だ。一応、身体らしき物はあるが、四角にしか見えない。
「これ、私かぁ……」
絵の中の私は、赤いベレー帽らしきものをかぶっており、七本ある右手にはペン、左手には紙を持って笑っていた。
「まぁまぁ、やな」
そう言い、私は視線を逸らした。『お絵かき帳』を閉じ、ベッドのペンを拾う。
「ふーん。まぁまぁ、かあ」不満げに呟くと、ヒロはベッドに寝ころんだ。
「もう寝ぇや、マロさんも、とっくに寝てるで」
「マロさん、さむないかなぁ」
「マロさんは、毛皮があるから大丈夫。犬は寒さに強いねん」
ベッドを下り、ヒロの肩まで布団を引き上げ、部屋の電気を消した。
机の上のスタンドライトをつけ、『お絵かき帳』を洋服ダンスの奥にしまい込む。しばらく見たくなかった。
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テーマ:長編自作小説 - ジャンル:小説・文学
- 2007/01/28(日) 16:50:15|
- 長編「葬送」
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